かつての軍都『広島(ヒロシマ)』から消されゆく機密軍事施設“地下壕”を追うドキュメンタリー映画

自主制作映画【土の記憶】地下壕に入ったことがありますか?伊藤園実初監督作品

ドキュメンタリービデオ作品【土の記憶】とは

「土の記憶」制作にあたって
地下壕平和都市・広島に残る数多くの戦争遺跡の一つ地下壕。この地下壕をテーマにした記録映像が「土の記憶」です。
軍都・廣島が何をもたらし、半世紀以上経った今私たちに何を語りかけているのか。日本がかつて起こした戦争について自分の足元から見つめ直し、失われてゆく戦争遺跡を時代の記録として残しておきたいという気持ちから1人で撮影を始め、自主制作したのが、このビデオです。
広島で長い間、戦争遺跡調査活動をしている「広島の強制連行を調査する会」、在韓被爆者を中心とした在外被爆者の支援をしている「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部」など、様々な方から多大なご協力をいただき、勉強させていただきながら2002年9月から2005年5月まで2年8カ月かけて、ようやく完成にこぎつけました。

映像は地下壕を掘ったと証言してくださる在日韓国人の方と、埋もれた歴史に光を当てようと活動されている「広島の強制連行を調査する会」の方のお話が中心です。
軍事工場であった地下壕内部の映像とその地下壕を掘ったという方の証言は、全国的にみてもそう多くはないのではないか、と思います。
また証言者の方は〝韓国のヒロシマ〟と呼ばれる在韓被爆者の多い地域、韓国慶尚南道・陜川の出身でした。故郷を離れて生きてきた在日韓国人の方の思い、加えて今なお戦争を抱えながら広島を思い生きる陜川在住の被爆者の方のお話も映像に納めています。

「戦争」を考えたきっかけはNGO
私は札幌にいた時、タイの子供を支援するNGOでボランティア活動をしていました。そこで日本人と結婚しているタイ人女性達と知り合いました。
彼女たちは自国の文化と日本の文化との狭間で悩んでいました。例えば、床に座って手でご飯を食べるタイの文化は日本では行儀の悪いことです。しかし子どもたちはタイに行った時にはこうした光景を目の当たりにします。親にとっては自分の文化を悪いことだと教えるわけにはいきません。子どもも親も戸惑っていました。
そこで私は彼女たちの文化を彼女たちの子供に、そして日本人にも知ってもらう機会を設けたらいいのではないかという単純な思いから、あるNPOで「親子多文化教室」を企画しました。

中国残留孤児の方たちに講師を依頼した時のことです。親子多文化教室では講座の中で「遊び」を教えていただいていました。いつものように軽い気持ちで「何か遊びを教えてください」と聞きました。すると言葉につまり、急に黙ってしまいました。中国残留孤児の方たちは「遊び」を知らなかったのです。
私は訊ねたことを後悔しましたが、話をしているうちに中国式ジャンケンを聞くことができました。面白いことに中国では「グー、チョキ、パー、キリ」の4つで行うというのです。そこで中国式ジャンケンを教えてもらうことになりました。 

中国残留孤児の中国での暮らしぶりなどは報道などで多少は知っていたつもりでした。しかしこの時初めて残留孤児たちが置かれた状況をほんのわずかですか、感じることができたような気がしました。
「戦争について何かしなければいけない」そう思いながらも行動に移すことはできませんでした。
そうしているうちの2000年に広島に引っ越すことになったのです。

広島での驚き〜知った者の責任
戦争美しい町並みに残る被爆建物。原爆ドームしか知らなかった私は、町のあちこちに残るそれらに驚きました。それらの被爆建物の一部は軍事施設でした。
私は、広島が軍都であったことを初めて知ったのです。

平和関係の集会やフィールドワークなどに参加するようになり、当事者の話をよく聞きました。聞いていくうちに、知った者の責任を考えるようになりました。高齢の方々が命をかけて伝えようとしていることに、何か応えなければいけないと思ったのです。そして伝えることのお手伝いができればと思い始めたのです。
またこうした集りなどで、韓国にいる被爆者のことを知るようになりました。なぜ朝鮮半島の人々が被爆することになったのか、深く知りたいと思いました。

本や資料などで、軍都であるがゆえに朝鮮半島から大勢の人々が来ていたことを知りましたが、関連ビデオを探すのは至難の業でした。
ないのであれば自分が作ろう。初めて私は軍都廣島に関する映像制作を考えたのでした。

時は残酷ですから、今撮影しなければ語る人々もものもなくなっていきます。
幸い広島には朝鮮半島と軍都廣島の関わりを長年にわたって調査している市民グループがありました。「広島の強制連行を調査する会」です。その方たちの協力を得て2002年、軍事施設の一つ地下壕を撮影し始めました。なぜなら朝鮮半島から来た人々が関わっていた可能性が大きいこと、次々に埋め戻しされてしまい、実際の映像が少ないからです。
とにかく埋め戻しされる前に地下壕を記録しておかなければいけない、そういう思いから「土の記憶」の撮影は始まりました。

在韓被爆者との出会い〜支援ボランティアについて
埋め戻される地下壕地下壕を撮影している中で、掘った証言者を捜していたのですが、当時を知る人々や当事者の証言が非常に少ないことがわかってきました。地下壕が軍事機密であったことなどに由来するのですが、そうした中で地下壕を掘った当事者の方が見つかったのは奇跡的なことでした。

地下壕を掘ったのは広島県内に住む在日コリアン一世の方でした。 取材中、その方の故郷を訪ねたとき驚きました。「韓国のヒロシマ」と呼ばれる慶尚南道陜川郡だったからです。
私は広島と朝鮮半島の関係を知る中で、韓国のヒロシマ・陜川について、本や資料などを読んでいました。戦時中、広島には慶尚南道陜川郡から大勢の人々が来ており、敗戦後、韓国に帰国したというのです。しかし、まさか地下壕を掘った当事者の方も陜川出身だったとは思いもよりませんでした。
私は、陜川に行きたいと思いました。

陜川について知りたかった私は、在韓被爆者を支援している市民団体「韓国の原爆被害者を救援する市民の会(以下、市民の会)」と連絡を取りました。
2003年、被爆者援護法の施行令の一部が改正され、国外にいる被爆者の方たちにも各種手当てなどを受けることができるようになりました。市民の会では来広する在韓被爆者の手続きなどの支援をしていました。陜川からも大勢の被爆者が来日しているということで会いに行ったのですが、大変な思いをしていることを知りました。在外被爆者の方々は手当を受けるまでには多くの書類が必要です。日本語ができず、病気を抱えた高齢の在韓被爆者を同じ高齢の被爆者が世話人となっている姿に、私も何か手伝うことができないかと思いました。そこで、在韓被爆者の支援活動のボランティアを始めたのです。

ボランティアを通じて一人の陜川の被爆者の方と親しくなりました。私はその方を頼りに陜川へ行きました。お陰で被爆者の方たちや、地下壕を掘った方の故郷を訪ねることができ、陜川の取材がスムーズにできたのです。
こうして広島のことを何も知らなかった私が、幸せな出会いと多くの方々からの惜しみないご協力をいただいて「土の記憶」をまとめることができたのでした。

私は2003年の春に初めて陜川を訪れてから、毎年のように通っています。在韓被爆者の方々へのボランティアも継続して行っています。広島や韓国で大勢の被爆者の方々と出会い、「戦争」についてさらに考えるようになりました。
2作目は戦争が人々の人生に何をもたらしたのか、在韓被爆者の方やその子どもたちを通して、より深く考えていきたいと思っています。
土の記憶オフィシャルサイト